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当日、仙台駅ビルで、化粧を直している時に、地震に遇い、
「東京に行くんだから!」と、頑張っていたのですが・・・。
2時間位、雪が降る駅の外で待っていたのですが、東京も大変な事になっていると聞き、
諦めて帰ろうとしました。
道路を歩いていて、私と同じで、仙台から歩いて来たという女性2人と知り合いました。
3時間位歩いて、もうすぐ多賀城という所で、国道が冠水していて進めず、
3人で小学校に避難する事となりました。
私達が入った教室は、ろうそくとラジオだけで、小さな子供さんとお年寄りが床に寝ていらして、
私達や50〜60台位の男性達は、1年生の小さい椅子に座ったままでした。
私達は、机を借り、授業中居眠りする様にうつ伏せになり、一夜を過ごしました。
5時位に、私達も、毛布をもらいました。6時半位に、先生達と一緒におにぎりを作りました。
外の状況がどうなっているか、全く分かりませんでしたが「人に聞きながら行けば何とかなるでしょう」と、自宅に向かいました。
幸い、自宅は、海から離れている方ですので、冠水はなく、落下物もそれほどでもなく、無事でした。
電気と水道が止まっていましたが、「数日で戻るだろう」と勝手に思っていました。
結果、電気が来たのは、5日後、市の水道の復帰は、4月3〜4日位の予定です。
自宅のガスは、壊れなかった様です。会社は、ガソリンが入手できない事、
ライフラインが回復しない事により、自宅待機ですので、ほとんど毎日、給水かスーパーに並びます。
平均すると、1回並ぶのに、4時間位になっていると思います。
近所のスーパーは、品物が豊富な方だと聞きました。被害の少なかった山形から、運んでくるそうです。
今まで、2回並びましたが、電子レンジで暖めるご飯、ラーメン等は、2回目は、売られませんでした。
ペットボトルの水や、これらは、5点まで。他の商品と併せて、20点まで買えます。
11日は、帰る途中、停電のコンビニで、袋入ラーメンを買いました。
昨日、近所のコンビニも開いたのですが、スナック菓子位しか、買う物がありませんでした。
水は、小学校の校庭の水飲み場に、汲みに行ったのですが、水がほんの僅かしか出て来なくて、
しかも2本しかなく、5時間並びました。次は、市の給水に行ってみました。
2時間半並んだ所で、給水車が来てくれましたが、委託された水道関係らしき○○有限会社という、
小さい給水車でした。
一人、4リットルと限定されました。
今日は、正式な出勤ではありませんが、会社に行ってみました。
ほとんどのキャビネットが倒れ、メチャクチャになっていました。
会社は、自宅より海に近いので、きっと震度も大きかった物と思います。
当日は、午後休みを取っていたので、事務所にいなくて、幸いでした。
会社の水で、洗い物をして来ました。
それにしても、産業道路と呼んでいる県道の凄まじさが、目に焼きついて離れません。
まるで、地獄絵図の様でした。両脇には、津波で流されて来た車が何重にも重なっています。
こちらも、メチャクチャでした。
町は、信号が復帰しているのに、こちらは、ほとんどが、消えていました。かなり、危険でした。
私は、実際に壊れた物や、津波を目撃する事もなく、地震を怖いと思った事は、ありませんでした。
しかし、今日の惨状には、寒気がしました。「よく、これで、通行止めを解除したな」と思いました。
帰りは、産業道路を通るのを止め、別の道を戻りました。
今日の外出は、開いているガソリンスタンドを探す目的でもありましたが、全然開いていませんでした。
道路脇に並んでいる車の列がありましたが、それは、スタンドに並んでいるのではなく、
やむなく乗り捨てて行った車の列でした。
地震後、今日で1週間になります。私の回りにも、避難した友人達が複数おり、生活が平常に戻ったら、避難民復帰祝を予定しています。
少し、大変でしたが、自宅に戻り、電気が来て、夜は明るい照明があり、暖を取り、
食料もあり、避難されている方達よりは、ずっとしあわせな事を忘れない様にしたいと思います。
久さんに、ご心配頂き、お礼のメールのつもりが、地震レポートになってしまいました。
東京でも、計画停電、商品・ガソリン不足・交通機関が乱れて大変だそうですね。
ライブの振替日は、5月以降ですね。次回、お会いするのを楽しみにしています。
- H.N:ナターシャ